昭和も40年代後半に入ると好景気日本にも少し陰りが出てきました。陰りという言葉の印象が悪ければ、周囲をかえりみず突っ走ってきたものが、周りを見る余裕、これでいいのかと自問するゆとりを得たといってもいいかもしれません。もっとも昭和39年の東京オリンピックの後から、その予兆のようなものはあったようです。そんな時代にテレビもまた、時代の影響を受け少しづつ変わっていったのです。
初期のテレビバラエティは大人の笑い
バラエティを例にテレビの変化を見てみましょう。初期のTVバラエティは明らかに大人を対象としたものでした。クレージーキャッツの代表的な番組に「シャボン玉ホリディ」があります。
これなどは大人たちが楽しんでいたショービジネスの世界をテレビ向けにソフトアレンジしたものでした。今の言い方をすると夜の世界のエンターテインメントです。
萩本欽一さん、坂上二郎さんのコント55号も人気のきっかけはやはり大人の世界。もともと浅草の芸人さんですからね、当然といえば当然です。
そうです。当時の日本のバラエティ番組は大人を対象としたもの。いえ笑いやテレビそのものが大人のための娯楽だったのです。
視聴者の中心は子どもたちに
1969年に始まったザ・ドリフターズの「8時だよ全員集合」あたりから、テレビのチャンネル権は子どもたちが握るようになりました。笑いの質が変わったのです。だれにでもわかりやすい直感的な面白さや動きの派手さが求められるようになりました。
といいながらもドリフターズの笑いはコントの王道ともいうべきしっかりと計算されたものでした。いってみれば大人のセンスとマーケティングで子どもにもわかりやすい笑いの世界を作り出していったのです。
この変化を敏感に感じ取ったのが萩本欽一さん。「欽ちゃんのドンとやってみよう!」略して欽ドンの登場です。視聴者参加型という、誰にでもわかる笑いはバカウケ※。
※バカウケ=視聴者のハガキはバカウケ、ややウケ、ドッチラケと面白さ順にランク付けされていました。
出るクイは打たれる俗悪番組という足かせ
人にしろ、組織、メディアだってそうです。社会的な影響力を持つようになると、それに反発する勢力も生まれます。
テレビが肥大化すると視聴者も今までのように面白がってばかりではなくなりました。なかでも多かったのは“子どもに悪影響を与える”という世間の声です。
俗に言う俗悪番組、ハレンチとも呼ばれました。ちなみにハレンチは破廉恥と書きます。恥を恥とも思わない恥知らずという様な意味ですね。
テレビサイドとしては悪影響というなら、親が見せなければいいだけのことでは?という気持ちもないではなかったと思います。しかし、スポンサー商品の不買運動などを考えるとそうもいきません。
それまである意味で何事にも鷹揚だったテレビの世界が、視聴者の声というものに神経質になったのは、この頃からではないでしょうか。
そして作り手であるテレビにも変化が
番組にも遊びの延長のようなスタンスで作っているところがありました。よくいえば何事にもおおらかでゆとりのある世界の中で、テレビというメディアは幼少期をすごしてきたのです。
造り手にしてもそうでした。スタート当初のテレビは世間からまともなものとは見られていませんでした。まぁ確かに官僚や公務員、銀行、一流商社などと比べれば怪しい世界だったことは想像できなくもありません。
当然、局員たちも育ちはいいけれど、遊び人だったり、はみ出しもの、一家の持て余しなど、ひとクセもふたクセもある“ヤバい人たち”が多かったようです。
彼らにとってテレビは新しいおもちゃ。当人たちが沿う感じていたかどうかは抜きにしても、いたずら小僧が自らも楽しんで作る絶好の遊び場だったに違いありません。
しかし、テレビという世界が認知され、社会的な地位を与えられると、勤務する人たちにも変化が現れます。お金持ちで遊び好きのお坊ちゃま、お嬢様のおもちゃから、マジメで成績がよく、世間の常識をわきまえた会社員のものへ。世代交代です。
気がつけば、社会の声に応えてテレビ自身が、ルールや規制、社内の決まりごとなどを整理、規制するようになっていったのです。